自衛隊で阪神淡路大震災の災害派遣エピソードは?実体験はこうでした!

皆さん、こんにちは。

元自衛官の、レンジャーアクアと申します。

自衛隊といえば、もちろん国の防衛が主任務ですが、自衛隊のイメージとして「災害派遣」を思い浮かぶ方も多いかも知れません。

 

平成7年1月17日午前5時46分に発生した阪神淡路大震災は、それ以降、自衛隊が本格的な災害派遣をするきっかけとなりました。

その阪神淡路大震災での経験は、記憶に新しい東日本大地震でも大いに活かされていました。

 

阪神淡路大震災の報道的な記事はよく目にしますが、実際の現地体験の情報はあまり知ることが無い様に感じますので、今回情報としてお伝えしようかなと思います。

 

当時大阪で自衛官として勤務していた私が実際に体験した災害派遣活動をお伝えします。

  • 震災発生から1週間
  • 人命救助から被災者支援
  • 報道されない出来事
  • まとめ

の順にお伝えしていきます。

震災発生から1週間

実際の現場の流れとしては

期間 内容
初日〜1週間 人命救助
1週間〜終了 被災者支援

といった感じになりますが、順を追って説明していきます。

 

 

震災発生から24時間

阪神淡路大震災発生時刻は、自衛隊でも就寝時間でしたので、私も当時勤務していた大阪にある自衛隊の生活隊舎で就寝中でしたが、大阪でも震度4を観測する程の揺れでしたので、流石に目が覚めました。

ただ、目は開けたものの、睡魔の方が勝ってしまい、隣にあった下駄箱がこちらに倒れてきても被害が最小限になる様に、顔を防御しながら寝ていました。

 

その後、起床時間になり、テレビのニュースで淡路島から兵庫県にかけての地域で、かなり被害が出ていると報じていましたが、交通路が寸断されていて、実際の現場はヘリからの映像に頼っていた事もあり、詳しい被害がはっきりしていませんでした。

結局その日は、自衛隊としては、災害派遣の要請が無ければ動けませんので、災害派遣の準備をしつつ、通常勤務をしていました。

 

当時は、よく初動の遅れが指摘されましたが、前例の無い規模の災害であった事とそれに対応する本格的な災害派遣部隊としての自衛隊の立場がはっきりしていなかったので、最善は尽くしていたと思います。

 

 

災害派遣要請がかかるかもしれない状況の中で、勤務終了(17:00)後も外出は出来ず、待機状態が続き、当日夜に翌朝の出動が決まり、翌朝4:00起床し、駐屯地近くの演習場からヘリで王子公園まで行き(道路が寸断されて車両移動が出来ない為)、小隊毎事前に決めてあったエリアに行きました。

ちなみに、私が担当したエリアは東灘区でした。

当然ながら徒歩での移動で、当時は感じませんでしたが、今地図で見ると意外と距離がありました。

 

今では違いますが、当時はこれ程大規模な災害派遣を経験していませんので、それに対応した装備も持っていませんでした。

実際に現地に持って行った装備としては、

  • スコップ
  • バール
  • 消化器
  • 懐中電灯(各自の私物)
  • 手袋

くらいでしたので、正直ほとんど役に立ちませんでした。

 

 

現地到着から1週間の間に起こったこと

到着初日

1月18日

6:00 王子公園

大阪の自衛隊演習場からヘリで王子公園に到着したのが大体6:00くらいで、各班に別れて目的地を確認して向かって行きました。

 

7:00 救出現場到着

約1時間前後で救出現場に到着しました。

各班割り当てられた地域に向かう途中も、至る所で家屋の倒壊が見られ、その地域の近隣住民の方々が、助けを求めて近寄って来られました。

ただ、各班で割り当てられている地域が決まっている為、その場で救出活動をする事が出来ず、その地域を担当する班に情報を共有して前に進むという行動の連続でした。

 

7:30 救出活動開始

救助する現場としては、倒壊した木造家屋になります。

今でこそ東日本大地震も経験し、一般の方々も自衛隊が災害派遣活動をする部隊だという認識がありますが、阪神・淡路大震災当時は、そんな認識もほとんど無く、実際に活動する自衛隊の方も、地震を想定した災害派遣活動訓練なども行っていない為、全てぶっつけ本番でした。

正直現場にいた者としては、最初の救助現場である崩れ落ちた一軒家を前に、何をどうすればいいか想像も出来ず、恐る恐る目の前の瓦礫を拾い上げた事を覚えています。

 

救出活動の流れとしては、まずその現場に詳しい方(親族・近隣住民)に事情を聞いて、崩れ落ちた一軒家の屋根から、全ての瓦礫を手作業で取り除いて行きました。

崩れ落ちていたのは、全て木造の一軒家でしたので、我々の救出活動も古い一軒家がメインの活動場所となりました。

震災の影響で、そもそも重機が入って来れない上、震災による災害派遣の為の道具も持っていないので、イメージとしては、一軒家の家を屋根瓦から掘り起こしていく作業と思って頂ければいいと思います。

生存者を探して、呼び掛けながらの作業でしたが、残念ながら私達の班の救出作業中に、その呼び掛けに返事が返ってくる事はありませんでした。

震災が発生した時間が朝方早かった為、私達が担当した現場の被災者の方は、全て寝室の布団の中にいらっしいました。

それが分かってからは、寝室目掛けて集中的に救出作業をしたので、徐々に一軒あたりの作業時間も早くなっていきました。

そして毎回、現場から搬出したご遺体を近くの公民館(どこの地域にもある小さな公民館)に運んで行き、並べていくという作業の連続でしたが、震災の影響で当然停電していましたので、複数の蝋燭で灯りをとっている中に並べられたご遺体の列は、今でも忘れられない光景でした。

 

1:00 1日目の救出作業終了

ほとんど休む事なく繰り返した作業(昼食は各自持参のコンバットレーションを10~20分で流し込みました)が終了したのは、日付が変わった深夜1時でした。

救出作業終了後は、現地の学校のグラウンドに設営していたテントで、夜食を取りそのまま就寝(もちろんお風呂はありませんので食べたらすぐ寝る状態です)。

 

 

到着2日目

1月19日

6:00 2日目の作業開始

3時間程の仮眠をとって、また2日目の救出作業開始です。

救出作業(特に生存者を見つける事)は、時間との戦いですので、流石の自衛隊員も体力的にキツい状態ですが、ある意味厳しい状態での活動は訓練で慣れているので、気力・体力の続く限り目の前の作業に没頭する状態でした。

 

作業自体も2日目という事で、数をこなす毎に要領を得て早くなっていきました。

そしてこの日から救助作業にレスキュー隊が参加する事になり、さらにスピードアップしていきました。

やはりレスキュー隊は、サーチライトやジャッキなど、救出する為の道具が揃っていて、羨ましく思った事を覚えています。

 

22:00 救出作業終了

前日よりも早い時間に私達が担当していた地域の救出作業が終わり、初動としての救出作業は終了しました。

 

 

到着3日目以降

1月20日

この日から宿営地を少し高台の学校のグラウンドに移し、救出活動については要請がある毎に現場に向かうという流れになりました。

 

地震発生時間が午前5時46分という事もあり、ほとんどの方が就寝中の出来事で、各家の寝室を掘り起こしていく作業でしたが、重機が入れない状況の中で、倒壊した家屋を屋根の瓦から全て手作業で行いました。

 

さすがに長時間の肉体労働と、崩れた家を掘り起こしている最中に突然くる余震のプレッシャーに(揺れが収まるまで近くの既に崩れている柱にしがみ付く状態)、「これは体がもたないかもしれない」と不安にもなりましたが、目の前で救助を必要としている方々を前に、ただひたすら作業を続けていきました。

結局私が担当していた地域で、10軒以上の家を掘り起こしましたが、生存者はおらず、ご遺体を掘り起こすのみとなってしまいました。

時間との闘いの人命救助の中で、もう少し効率がいい方法があれば良かったのですが、あの状況の中ではベストを尽くしたと思いますし、あの経験を今後同じ状況になった時の参考にしなければと思います。

 

発見したご遺体を毛布に包んで、近くの小さな公民館に運び、電気も無く、蝋燭の灯りが並ぶ中にご遺体を並べていく光景は、30年近く経つ今でも忘れる事が出来ません

 

 

 

人命救助から被災者支援

自衛隊が現地に入り、人命救助の作業も1週間も経てば生存者がいる可能性も低くなり、人命救助は消防や警察に任せ、家を失ったり停電や断水で困っている方々の支援活動の段階に入っていきました。

被災者支援として行っていたのは、

  • 入浴用仮設施設の開設
  • 倒壊家屋の処理
  • 給水支援
  • 給食支援

などでした。

 

インフラが破損し、生きるのに必要な水や食料の支援がメインの活動に変わり、実際にはかなり待機している時間がほとんどだった記憶があります。

ただ、特に自衛隊ならではの「入浴用仮設施設の開設」については、今までの生活が一瞬で奪われ、先が見えない状態の中で、一時の安らぎやリラックス出来る時間を提供できたのではないかと思います。

 

 

 

報道されない出来事

実際の災害現場では、怒っていた出来事の中で、報道されていない事もありましたので、お伝えしておきます。

特に記憶にある2つの出来事

  • 焼き芋屋
  • 街中の宝石店

 

焼き芋屋

震災発生から2~3週間経ち、ある日の夕方、学校のグランドに設置したテントでくつろいでいると、一台の軽トラックが私達の宿営地近くに止まり、何だろうと見に行くと、焼き芋屋の軽トラックが止まっていました。

寒い季節でしたので、これはありがたいなと思い、見に行くとなんと、焼き芋1本5000円!

もちろん商売ですので、いくらで販売しても自由ですが、これはどうなんだろうとモヤモヤした気持ちになりました。

 

 

街中の宝石店

街中を移動している中で、宝石店とみられる店舗が明らかに地震の影響では無い雰囲気で窓ガラスが割れていて(周りの建物のガラスは割れていませんでした)、なんか違和感ある建物だなと気になりました。

後々思い返してみると、あれは要するに【火事場泥棒】というやつだったと思います。

 

 

 

 

まとめ

いかがでしたか?

 

今回は、「自衛隊で阪神淡路大震災の災害派遣エピソードは?実体験はこうでした!」と題しまして、阪神淡路大震災での実際の現場での救助活動を時系列でお伝えしました。

 

自衛隊の日本における大規模な災害派遣の先駆けになった阪神淡路大震災は、自衛隊にとってもとても大きな出来事だったと思います。

 

災害派遣の初動の遅さなど、色々指摘されているところがありますが、現場での詳しい活動内容は報道されていない様に感じます。

実際に現場で何が起こっていたのか、詳しい情報が出ていませんので、その当時自衛官として活動していたリアルな救助活動をお伝え出来たと思います。

いつもありがとうございます。

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